教会理念「開かれた教会」


豊橋ホサナキリスト教会は、

  1. 聖書信仰に堅く立ち、主イエス・キリストの再臨を待ち望みつつ、霊とまことによって礼拝と祈りをささげる。
  2. イエス・キリストの救いの福音を宣べ伝えることによって神の家族を拡大し、幼児から青年、高齢者に至るすべての年代の人々が集う、万人に開かれた教会を目指す。
  3. 教会員ひとりひとりが与えられた賜物を用いてお互いに支え合いつつ、私たちが遣わされている地で神から委ねられた必要に、神の愛と義を持って謙遜に仕えていく。

教師紹介


主任牧師
加藤 一也(かとう かずや)

【出身地】
東京都

【生い立ち・経歴】
三代目クリスチャン。
厳格なクリスチャンホームで生まれ育つもかなり【わんぱく】な少年時代を過ごす。
その後、hi-b.a.に導かれキリスト者としての自覚がハッキリ芽生える。
東京キリスト教大学東京基督神学校卒(M.Div)。
卒業するも牧師への道を放棄し、2000〜2004年を米・ニューヨークで過ごす。
現地教会での交わり、滞在中に起こった世界同地多発テロ(911)、イラク戦争
さまざな経験、出来事を通して再び主に取り扱われ帰国。
2005年4月 豊橋ホサナキリスト教会赴任。
2017年4月 同教会主任牧師就任。
現在は、妻と息子2人、娘1人の5人家族。

【趣味】
クルマ弄り、洗車、ディテーリング、ドライブ、旅行、訪れた国は20カ国以上
最近はアウトドアに興味を持ち始めている。

伝道師
安田 恵梨(やすだ えり)

【出身地】
茨城県

【生い立ち・経歴】
幼稚園教諭として勤務した後、新潟聖書学院へ入学。
卒業後、五十嵐キリスト教会、六日町キリスト教会、衣笠中央キリスト教会にて奉仕。
2017年4月より豊橋ホサナキリスト教会協力教師として赴任。
2018年4月 日本同盟基督教団補教師准允。

【趣味】
趣味は、喫茶店巡りをして美味しいコーヒーを飲むこと。

教会スタッフ
阿部 真和(あべ まさかず)

【出身地】
神奈川県

【生い立ち・経歴】
両親の熱心な祈りと良き友だちとの出会いの中で信仰が育まれ、京都、湖西で牧師として働く。しかし失敗、挫折の連続で心が折れ、働きを辞め、ただ礼拝する場を求めてホサナ教会にたどり着く。
1996年、当時の主任牧師、森川昌芳師に声をかけていただき教会スタッフとして働き始め、今日に至る。
神と人とに仕える喜びをここで改めて教えられ、感謝と賛美が尽きない日々へと変えられる。子どもたちの前で話し始めるとなぜか力がみなぎってくる。

【趣味】
趣味は、ギター、のり鉄、コーヒーにジャズ

協力宣教師
Elisa Midori Kiyan(エリーザ・ミドリ・キアン)

My name is Elisa Midori Kiyan and I’m a Brazilian second generation. I was sent to Japan by Brazil Presbiterian Church Mission and I’m missionary responsible for the Brazilian group from Toyohashi Hosanna Christ Church since 1997. Our church is named Vida Nova Church which means “new life” because we has found not only Christ as well as a new life in Japan (2Corinthians 5:17).

信仰告白 -日本同盟基督教団-


  • 旧、新約聖書66巻は、すべて神の霊感によって記された誤りのない神のことばであって、救い主イエス・キリストを顕わし、救いの道を教え、信仰と生活の唯一絶対の規範である。
  • 神は霊であって、唯一全能の主である。神は永遠に父と子と聖霊の三位一体であって、その本質において同一であり、力と栄光とを等しくする。父なる神は、永遠のみ旨により万物を創造し、その造られたものの絶対主権者であられる。
  • はじめに人は、神のかたちに創造され、神と正しい関係にあった。しかしサタンに誘惑され、神の意志に反逆して罪を犯し、神のかたちを毀損した。それゆえ、すべての人は、罪と悲惨のもとに生まれ、その思いと言葉と行為とにおいて罪ある者である。自分の努力によっては、神に帰ることも、また、そのみ旨に適う善行を行うこともできず、永遠の滅びに至る。
  • 主イエスキリストは、父なる神のひとり子であって、聖霊により宿り、処女マリヤより生まれた。真の神にして真の人である。主は我らの罪を贖うために十字架にかかって死に、葬られ、三日目に甦り、永遠の生命の保証を与えられた。主は大祭司として父なる神の右に座し、我らのために執り成したもう。
  • 聖霊は、恵みによって、我らに父と子を示し、罪を認めさせ、赦しを与え、我らを新たに生まれさせ、神の子となしたもう。人が義とされるのは、自分の行為によるのではない。主イエス・キリストが身代りに死んでくださったゆえに、彼を信じるただその信仰によるのである。さらに、聖霊は、信じる我らの中に住み、我らを聖化し、我らにみ旨を行わしめ、助け主、慰め主として世の終わりまでともにあり、我らをキリストの共同の相続人となしたもう。
  • 教会は、聖霊によって召し出されたキリストの体であって、キリストはそのかしらである。贖われたものはみなその肢体である。地上の教会は、再び来たりたもう主を待ち望みつつ、聖書の真理に立ち、礼拝を守り、聖礼典を執行し、戒規を重んじ、すべての造られた者に福音を宣べ伝える。
  • 終わりの時に、主イエス・キリストは、みからだをもって再臨し、生ける者、死せる者を審判したもう。主は、すべてのものを新たにし、み国を父なる神に渡したもう。

教会の歴史


〈歴代牧師・伝道師の記録〉

教師名
1951 ~ 1958 エステル・スウェンソン師
1956 ~ 1957丸山軍司師(牧会協力) 
1958 ~ 1961小岩井昭三師(牧会協力)
1959 ~ 1961エリック・ウィバーグ師
1962 ~ 2003森川昌芳師(主任牧師)
1992 ~ 1996内田アン師(日系伝道)
1997 ~ 喜屋武エリサみどり師(日系伝道)
1998 ~ 2001田中秀之師
1998 ~ 2002阿部起士師
2000 ~ 2007野町真理師(主任牧師)
2001 ~ 2007森川直子師(小坂井伝道)
2002 ~ 2005大瀧恵理也師
2005~加藤一也師 (主任牧師)
2007 ~ 2017林明信師(主任牧師)
2017 ~安田恵梨師

〈教会の歴史を振り返って〉

 当教会は、主イエスの愛に押し出された一人の宣教師によって始まりました。中国の共産主義化により、宣教地を日本に移したスウェーデン・アライアン ス・ミッションの宣教師、エステル・スウェンソン女史です。1951年4月に豊橋に来られ、最初は日本基督教団中部教会で礼拝を守りながら、東田町(現在の東田チャペル)でバイブルクラスを始められました。最初の信仰告白者が起こされたのが1952年11月頃とのことです。会堂を住吉町に持つようになったのは、1955年のことでした。スウェンソン先生の下で信仰を持たれた方の親戚が、土地を譲ってくださったのです。


 スウェンソン先生はまた、自転車に乗って豊橋中に福音を伝えて行かれたそうです。先生を助け、一緒に自転車で走られた川窪起志花さんは、当時のことを振り返り、笑いながらこのように語っています。「スウェンソン先生の自転車は輪が大きいので、一回こいだら遠くまで行くのよ。私の自転車は輪が小さいから、先生についていこうと思ったら、何度もこがなければならなかったのよ。」と。東海地方に来られた宣教師の方々は、一軒一軒を訪問し、福音を語られたそうですが、そのスピリットは今も、「出て行く教会」という理念の下、私たちの教会にも受け継がれています。

 協力牧会者として、丸山軍司師、続いて小岩井昭三師が赴任されましたが、その方々も転任され、スウェンソン先生の次に来られたウィバーグ先生も健康上の都合で母国へ帰られることになりました。そこにいらしてくださったのが、森川昌芳先生御夫妻です。1962年の5月のことでした。森川先生は、前任の古河教会でもそうされていたように、豊橋に来られても、宣教団体からの援助を打ち切り、自給独立の道を選ばれました。宣教師の時代には出されていたお茶とケー キが無くなったからでしょうか、スウェンソン先生からウィバーグ先生に引き継がれた時、30名であった礼拝出席者は、15名となりました。しかし、純粋に主を愛し主に仕える群れを用いて、主は働き始められたのです。1962年のこの年、教会は、同盟基督教団に加入し1964年には宗教法人の認可を受けました。

 更に、森川先生御夫妻に、教会に幼稚園を、という思いが与えられました。幼児からのキリスト教教育の必要性を覚え、是非とも幼稚園が必要であるという思いが強く迫ってきたのです。当初、この考えは、役員会でも受け入れられなかったようです。教会の財政上、とても不可能に思われたからです。そんな時、清水たねさんという老婦人が「幼稚園設立のために」と15万円をささげられたそうです。当時、この教会での月定献金の最高が千円とのことですから、15万円とは大層な金額です。未亡人で、裕福でもない清水たねさんは、畑で採れた野菜を食べ、電気、水道、ガスを止めて、お金を蓄えておられたのでした。それを知った教会の方々は、自分たちもと、喜んで犠牲を払い、ささげられたそうです。このようにして、1966年4月、教会付属幼児教育施設愛児舎が開園されました。主の祝福は愛児舎だけにとどまらず、礼拝出席者数も、この年、54名となったのです。

 2002年、愛児舎は、37回目の入園式を迎えました。卒園生が保育士となったり、今度は自分の子どもを預けたり、そんな例も見られます。教会員の子どもたちを始め、卒園生が、教会学校、ヤングチャペル(中高生科)、そして礼拝へとつながっていることは、大きな喜びであります。更には、信仰の確信へと歩んで行けるよう、祈り励んでいる今日であります。

 さて、愛児舎開園に次いで、必要に迫られたのは運動場でした。隣接地に空地がありましたが、地主の方は、教会へは売りも貸しもしないと譲りません。そこで、教会がとった方法は唯一つ、全能の主に祈るということでした。会堂がゆり動くのではないかと思う程の激しい祈り。またある時は、断食し、涙を流しての祈り。そんな祈りの日々が一年程続いた後、今度は地主さんの方から、土地を買って欲しいとの申し出があったのです。更に次の隣接地(現在の駐車場)が与えられました。これは、当時の愛児舎教師たちが、「あなたがたが足の裏で踏む所はことごとく・・・あなたがたに与えている。」(ヨシュア記 1章 3節)との主 の約束を信じて、3年間祈りながら踏み続けた結果でした。その後も、土地を買って欲しいとの申し出があり、現在の牧師館が建っている地が与えられました。 このようにして与えられてきた土地に、1979年、現在の会堂が建てられました。


 この間、良いことばかりが続いたわけではありません。最大の試練は、1975年に森川先生が心筋梗塞で倒れられたことでした。この時も、教会は一心に、ある時は徹夜で、祈り続けました。主の憐れみは尽きず、そのようなでも翌年の1976年には礼拝出席者数が100名を超えたのでした。

 教会の中で取り組んだことは、御言葉の学びでした。べテル聖書学校の教師の資格を取られた森川先生が、旧約聖書から新約聖書までを一貫して懇切丁寧に教えてくださいました。受講する者は、病気以外の遅刻、早退、欠席をしないよう心がけ、宿題をし、テストは必ず受けるという厳守事項を心得た上で申し込むことになっていました。受講期間中は、覚えなければならない聖書の多くの概念に圧倒されながらも、先生と兄弟姉妹らに励まされつつ、楽しく有意義な時を過ごせたと感謝でいっぱいです。ここで得たものを、錆付かせることのないように生かして行けたらと願います。

 教会の外に向けて行ったことは、ELI(夏の短期英会話教室)、総動員伝道、EE(拡大する個人伝道プログラム)などです。1975年から始まった松葉公園野外特別伝道集会は、23年近く続けられました。

 1986年、東田町にあった宣教師館を購入。東田チャペルとして、翌年より水曜礼拝を始めました。また、日系ブラジル人の礼拝者が増えて来たため、1991年より、東田チャペルにて日系集会を別に行うようになりました。このため、翌92年に内田アン師を招きました。アン師の結婚、辞任に伴い、97年には、この日系集会を通して信仰に導かれ、神学校へ行かれた喜屋武エリサみどり師を招きました。日本経済が傾く中、日系ブラジル人の方々の生活も厳しくなっていることを思いますが、「ヴィダ・ノーバ」(新しいいのち。日系集会の名前でもあります。)を与えてくださった主への賛美は、大きく響いています。

 1998年には、更にもう一つのチャペルが増えました。隣町の小坂井チャペルです。田中秀之師が、一軒一軒を訪問されて基盤を作り、森川直子師に代わられてからは、児童伝道に力を入れて教会開拓が続けられました。2001年末、大家さんの申し出により、それまで会堂に借りていた家を返すことになり、このため、同じ地区に、借家でという条件を挙げて祈って来たところ、主はなんとも素晴らしい方法で、新しい会堂を与えてくださったのでした。別の大家さんが、教会用に新しく建物を建ててくださり、20年間の契約で貸してくださることになったのです。この新しい集会場は、2002年10月に開所式を行いました。

 森川先生は、1990年に心臓のバイパス手術を受けられましたが、豊橋に来られて40年間、主の豊かな守りの中、牧会を続けて来られました。2つのチャペルを合わせ、現在は、二百数十名の兄弟姉妹が家族や友人を誘い、礼拝に集っております。最初の宣教の実から50年余。2002年には、主の恵みを振り返り、記念礼拝式をささげました。

 森川先生引退後は、野町先生、林先生にその働きが委ねられ、2005年4月には現在の主任牧師である加藤一也牧師夫妻が遣わされ、礼拝を重んじ教会員とともに福音宣教の業に励んでいます。

(2017年修正)